電波少年Wコミュニティスタッフ
みなさん、こんにちは。コミュニティスタッフのワウ子です。 8/30(月)よる8:00〜放送とWOWOWオンデマンドと番組公式YouTubeでお届けする 「電波少年W〜あなたのテレビの記憶を集めた〜い!〜」に、 『24時間テレビ』生みの親、都築忠彦ディレクターが登場します! 日本中に数々の感動を届け、日本のテレビの歴史に大きくその名を刻む24時間テレビ。 そんな番組の初回〜第14回まで番組に携わられた、都築ディレクターへの質問をみなさんから大募集します! ▼投稿はこちら▼ https://cs.beach.jp/scu/7jro たくさんの投稿お待ちしております。
zinzou
初期の頃は、赤塚不二夫先生とタモリさんの小人プロレスや矢沢永吉さんの後楽園球場ライブなど、尖っていたコーナーもあって、いろんな見どころがあったと思います。 なぜ、今のようなお涙頂戴コーナーばかりになってしまったのですか?
まっちょんぼ
ウィキペディア(Wikipedia)を見ると、 『番組内容のマンネリ化が進んだことで募金額や視聴率が低迷し、 責任を取る形で同年を最後に番組から降板した』 との記載があります。 降板を決めた際、やるせない思いや、悔しい思いなど、 どの様な思いで降板されたのか、 その当時のお気持ちを教えて頂けたら幸いです。 ちなみに、私は、第14回までの24時間テレビが大好きでした。 確かに、チャリティー色が強かったかもしれません。 でも、ちゃんと障害の方や困っている人に向き合っていたと思います。 「本当の主役は(テレビの前の)あなたです」 大野雄二さんの曲と共に オープニングとエンディングで必ず流れた、このテロップ、 その時のバックで、映していた地球、 ものすごく青かったこと、きれいだったこと、 当時は本当に小さかったですが、感動したことを思い出します。 今の24時間テレビより、何十倍も純粋に見ていたような気がします。 もしも見ることが出来れば、もう1度見たい、、、。 (ちなみにLP版を再現したCDでの再発版です。) (この中に都築ディレクター(プロデューサー表記になっていますが。) ライナーノーツが入っています。) 音楽についても、今以上にこだわって使用していたり、 作成指示などされていたと思いますが、 大野雄二さんや手塚治虫さんとのエピソードなど、 今だから言えることも話して頂けると幸いです。 最後に 都築ディレクター 感動をありがとうございました。 長文となり、失礼しました。
まっちょんぼ
「エバー・グリーン・ラブ?人間という名の大きな樹」もいいですよね。 時代もあって、テープで録音しているもの持っていて、未だに時折聞いています。 確か、この歌のレコードの売り上げ、募金に回っていたような、、、。 (間違えていたらすいません。) 考えてみれば、毎年歌われている「サライ」、 売り上げ、カラオケ印税などのお金、 募金にはいれば、今までにどれぐらいの募金額になったんだろう、、。 そういったところですよね。 昔と今の違いって、、。 レス、ありがとうございました。
りんゆうたん
「24時間テレビ」の実現には、参加局との連携など多くの苦労があったと思います。 普段聞けないような苦労話を聞かせてください。 「24時間テレビ」はテレビの力を試す、壮大な実験だと思います。 実際その力は大きく、たくさんの人の心を動かしてきました。 しかし回を重ねるにつれマンネリ化し、「数字」を取るための企画やキャスティングもあったと思います。 振り返ってみて、また現在の放送内容を見て、都築さんが違和感を感じる部分があれば教えてください。 個人的に「24時間テレビ」に関わる方々には、誇りを持って制作してほしいです。 この日だけは一切の数字を気にせず、視聴者がなんとなく感動して終わるのではなく、本当の主役になれるようなメッセージを発信してほしいです。
まさ
初めて募金に参加し武道館で番組観覧した時の話なのですが、武道館からの帰り地元の駅にもあったチャリティーコーナーに立ち寄った。すると片付けしているスタッフさんらしき人が「去年のTシャツ着ているな、どうしたの」と声をかけてくれた。自分は「売り切れだったんだけど去年のがあるから売ってくれた」と今考えると馬鹿正直にそういった。そうしたらスタッフさんが申し訳ないことしたなと謝り、「募金してくれてありがとうな」と頭を撫でてくれた。そしてその場にいた沢山のスタッフさんが「ありがとう」「また来年な」そう言って手を振ってくれた。子供ながらにこの番組はスタッフのテレビマンの思いが凄い番組なんだろうな、子供ながらにそう思った。 なんかあの時テレビマンって凄い人なんだなあと思ったんだと思います、そのお礼と感謝とチャリティの意義に賛同し38年募金に参加したんだと思ってます。 昔あったチャリティーパレードにも参加しました。今考えるとあのパレードも凄い企画だと思います。 今回生みの親都築さんが出られるということなので質問です。 チャリTシャツはどういう経緯で生まれたのですか。 また、なぜ武道館で放送することになったのですが。 今年もオンラインで募金し夏の終わりを楽しむ予定です、では。 *武道館にも何回か見に行っているのでエピソードはいくつかあるのですが長くなるのでこれくらいにしときます。
無添加せっけん
24時間テレビの第1回の時は6歳でした。小さい頃は始まる時のワクワク感と自分でも人の役に立てる喜びを感じて見ていました。しかしこの20年くらいはほとんど見ていません。 最近動画サイトで第1回を見直した時に、子供だから感じた高揚感ではなくて大人になった今でも素晴らしい番組だと感じました。素晴らしい番組をありがとうございました。
アイルトンせなか
ちょっと否定的な意見も混ざってしまいますが ネットの評価などを見ると 24時間テレビを「偽善番組」だの 「製作費をそのまま募金すれば良い」という人もいます が、善だろうが偽善だろうが 募金によって、人の命が助かるので 絶対に必要だと思います 今年も無観客になると思いますが あるかどうか知りませんが 会場の募金箱に募金してくれる人 24時間テレビを見て、募金の大切さを再認識して 近くのコンビニの募金箱に募金する人 それらの額を全て足せば 製作費なんて、余裕で越えると思います 某プロレスラーの言葉で 「しない善より、する偽善」というのがあります 余談ですが 昔フジテレビの27時間テレビで、ゲストとして呼ばれていた 西村知美さんが、募金箱を持ってきていて 司会者が困惑していた記憶があります
ゆうすけ
24時間テレビが好きすぎて質問連投ですみません(汗) 僕はまだ産まれてないので見てないですが、24時間テレビの初回の最後で、徳光さんが「この番組でやっていること(福祉事業)は、本来は政府がやることだ!」というような名言を残したと聞いています。その場面が見たいのと、ほかにも都築さんが覚えていらっしゃる24時間テレビ初期の名言や名シーンがあれば、是非教えてください!
虎野 門次郎
第一回の放送時、私は10歳でした。当時はテレビも今みたく24時間放送していませんでした。深夜に1回終わっちゃって、テレビ画面が砂嵐状態でしたよね。そんな時代に24時間の生放送は画期的で、私も24時間ずーっとテレビを見てました。でも第一回の時エンディングで代々木公園が人で溢れかえっちゃって、前にいた体の不自由な方が押し潰されそうに成りました。欽ちゃんが押しちゃダメだよ…と、もう泣きそうな声で呟きましたが、テレビの中継はそこで終わってしまいました。後で週刊誌を読んだら欽ちゃんが「ばか!下がれー」って叫んじゃったと書いてありました。私はその記事を信用したんですけど、よく冷静に考えたら欽ちゃんが「ばか!下がれー」なんて言うだろうか?と思いました。あの時の真実や如何に?知りたいです。
ノブさん
放送見ました。 貴重なお話ありがとうございました。 第1回放送当時は小学生一年生。 世界の飢餓、福祉に対する概念は全くなく、この番組で「リフト付きバス」「電動車椅子」「シャワー付きバス」「世界の飢餓」「福祉」を知りました。 私が住む合併前の旧市町村にも「24時間テレビ」から贈られた「リフト付きバス」がありました。 よく目立ちシンボル的存在感ありました。 大野雄二さんが作曲した番組テーマ曲は改めて聴きますと壮大な曲で名曲と思います。 チャリティーTシャツも1996年までのものは大好きなデザインでした。 社長の一言がなければ一回限りの番組だったわけで、視聴者的には良かったと思えるのは私もその一人でした。 ピンクレディーを第1回のシンボルとして起用したのも時代と思います。 また、他局のクイズ番組が終わった大橋巨泉さんや竹下景子さんが募金について語る。かなりすごいと思います。 良い番組作って頂きありがとうございます。と感謝です。
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